シャルル突進公(le Téméraire/ル・テメレール)3

『ローマ王』になりたかったシャルルが手に入れたのは、『ヘルレ公』の称号だけ。
力ずくで分捕ったヘルレ公領の統治を国際的にも認めてもらって一歩前進といえるのだが、
神聖ローマ皇帝に肝心要の話をうやむやにされたシャルルは憤懣やるかたない。

(‐∀‐#)『オレのほうが!絶対にローマ王にふさわしいのに!』

シャルルはぶつくさ言いながら帰途へつき、そしてはやばやとまたもや旅支度を整えだした。
お供をぞろぞろ引き連れて、服装も第一礼装でパリっと決めている。
いったいどうしたことだろう。 きらぎらしい服装に身を包んで出かけた先は…

ディジョン(Dijon)。
マスタードが名物の、ブルゴーニュ地方の州都。
フィリップ豪胆公が貰い受けたブルゴーニュ公領の首都。
シャルルはブルゴーニュ公となってから一度も足を踏み入れた事はなかった。
なぜ今更ディジョンに赴いたのだろう?

ひとつは数年前に亡くなった父母をこのディジョンに埋葬すること。
もうひとつはズルズルと後回しになっていた入城式(アントレ・ジョワイユーズ)を執り行うこと。
もうひとつは…

∩(゚∀゚*)『ブルゴーニュ王に、いやっ、ロタールの国の王にオレはなるっ!』

と声高に、公国の首都ではっきりきっぱりと国王立候補宣言すること!
ロタールの国。
なんという懐古的な響きでしょう。
ロタールの国(=ロタリンギア)というのは、ルートヴィヒ敬虔帝の長子ロタールの治めていた領地のこと。
1474年現在のブルゴーニュ公国と輪郭が丁度重なっている。

シャルルはこのロタールの国を現在に甦らせようと目論んでいるわけです。
フランス王家のくびきを脱して、新たな王朝を拓こうと。
いかにもシャルルらしい壮大な計画です。そうと決まれば領地をガンガン拡張していかなくては。

領地を拡げる前に、周辺の国々に牽制をかけておかなくてはいけません。
隣の神聖ローマ帝国に『オレの計画を邪魔したらタダじゃおかん!』と脅しに兵を送り込む。
こうして1474年から75年にかけて、神聖ローマ帝国領のノイス(Neuss)が攻囲されることに。
このノイス攻囲でブルゴーニュ側の人々は結構呑気に構えていたらしい。
外国の使節を迎えて宴会三昧、天幕に女を連れ込んでイチャついたりとにかく色々だったようだ。
本気で攻めるつもりはさらさらなくて、あくまで牽制程度ということだったということだろう。
にしたって、呑気すぎやしませんか。しかも1年って。しつこいな。
ひょっとしてアレか。トリーア会談の復讐入ってるのか。

さてさて。このノイス攻囲のさなかにブルゴーニュ公領となっていたアルザス地方で暴動が起きる。
ブルゴーニュ公の代官(Landvogt)としてアルザスを統治していたペーター・フォン・ハーゲンバッハ
(ピエール・ド・アジャンバク)が血祭りにあげられた。彼の暴政に怒り狂った市民が文字通りハーゲンバッハの
首を切って、新たな領主としてチロル公を戴いたのだ。陣中のシャルルはこれを聞いてどんな顔をしただろうか。
まさしく寝耳に水、晴天の霹靂、瓢箪から駒(違う)。

(゚∀゚#)『アルザスの田舎者どもめ、帰ったらボッコボコにしてやんよ!』

怒りをふつふつとたぎらせながらも眼前のノイス攻囲をじっくりと続けるシャルル。
牽制のつもりにしてもしつこいぞ。やっぱりこれってトリーア会談のときの復讐なんじゃなかろうか。
要するにいやがらせか。なんて奴だ。
周辺諸国の使節を迎えながらダラダラと続けていたノイス攻囲をシャルルがようやく畳む気になったの
は着陣して1年も経ってからだった。1年って。つくづくしつこいぞ。
ノイス攻囲を解いてから去年の怨み晴らさんとばかり、速攻でアルザスに攻め込むシャルル。
チロル公を蹴飛ばし、ついでにロレーヌ公も追い出してロレーヌ地方も制圧してしまった。

アルザス・ロレーヌ地方を分捕ったことで北のフランドル諸国と南のブルゴーニュが繋がった。
北海から地中海にかけての広大な王国、往年のロタリンギアの復活間近である。
…しかし、ピースが足りない。
欠けたピース。それがスイスだった。

だが、このスイスを相手取った戦いにシャルルは手こずることとなる。
追い出したロレーヌ公ルネ2世がスイスと手を結んで反シャルル運動を展開し始めたのだ。
当然ながらルイ11世もこっそりこれを援助している。

(゚∀゚#)『ロレーヌ公とスイスuzeeee!よーし、パパ南に兵を向けてスイス占領しちゃうぞー』

そういうわけで、現スイス国内のヌフシャトー(ノイエンブルク)近郊・グランソンの城塞に攻め込んで
城塞内にいた敵を皆殺しにするという凶行を犯したシャルルはスイス人をしこたま怒らせることになる。
怒ったスイス人たちは一致団結して対シャルル戦線を張り巡らし、『廻り込んで攻撃しようぜ!』を合言葉
にしてブルゴーニュ軍を蹴散らしに向かった。
さて、囮のスイス兵による目くらましに引っかかってしまったシャルルはといいますと。

・スイス兵の本隊に背後から廻り込まれてギッタギタにのされた上に

・うっかり自軍の指揮をミスったせいで味方を混乱させ

・財宝はスイス人たちにほとんどパクられた


というあまりにショッキングな結果を見ることになったとさ。

グランソンの戦いが終わった後にシャルルはかなり酷い鬱状態に陥ったようだ。
詳細はリルケ著『マルテの手記』やカルメット著『ブルゴーニュ公国の大公たち』をご覧下さい。
ヨロヨロになったシャルルはレッツ雪辱戦!!ということでこれまたスイス国内のムルテンに兵を向ける。
スイス兵と手を結んだロレーヌ公もこれに反撃するため待ち構えている。
シャルルはこのムルテンにおける戦いに備えて、『生け垣』なるものを造ったらしい。
攻め込んでくるスイス兵の足を止めるためのバリケードだったようなんだけど…

スイス兵攻め込む→ブルゴーニュ兵が慌てて逃げる→バリケードに邪魔されて逃げられない

どうみても裏目です。本当にありがt(ry
ムルテンでもボロ負けしたシャルルは必死こいて逃げて、逃げて、逃げて…
サヴォア公領に滑り込み匿ってもらうことになりました。
しかしこのサヴォア公領でまたまたとんでもないことをやらかすことに。

幼いサヴォア公の摂政となり国政を執っていた母・ヨランドは、あのフランス王ルイ11世の妹。
フランス王を嫌い抜いて何度も彼と喧嘩してきているシャルルが『国王の妹』であるヨランドに警戒するで
あろうことは想像に難くない。さて、匿ってくれたヨランドにシャルルが何をしたかというと…

まさかの拉致監禁だった。

疑心暗鬼に陥りきっているシャルルは、『ヨランドがルイと手を組んでオレを陥れようとしている!』
→『じゃあルイと手を組めないようにすればよくね?オレって天才じゃね?』
と考え、早速暴力的
手段に訴えたのでした。ヨランドさんスゴイとばっちりを受けてますな。

生来のせっかちさに疑心暗鬼と焦りが加わり、どんどんおっかなくなっていくシャルル。
周りの人は誰一人として彼を止めなかったのでしょうか。
一言、『その理屈はおかしい』と突っ込む人さえいなかったのでしょうか。
この疑問に対する回答の糸口となる証言として、シャルルの側近であり拉致監禁事件に関わった
某貴族・M氏がこうこぼしている。

(;M^ω^)『従わなければわたしの首が飛んでいたでしょう』(要約)

さて、この拉致監禁事件の顛末がどうなったのかというと見事に失敗。
前サヴォア侯夫人ヨランドとその子フィリベールを拉致監禁せんと画策したシャルルだったが、
親子は途中で逃亡して兄にあたるフランス王ルイ11世のもとに助けを求めた。
そしてサヴォアが実質的にフランス王の味方につくことになり、シャルルに対する周りの風向き
が完璧に悪い方向に変わってしまったのである。

このように敗戦・失策続きのシャルルだったが、それでも彼はめげなかった。
スイスとロレーヌ公がナンシー(占領していたロレーヌ公国の都市)を奪還してもなお、
彼はめげなかった!不屈の闘志を持つ男シャルル・ド・ブルゴーニュは決してめげなかった!!!!
最後まであきらめない、というよりは引くに引けない状況に追い込まれ、
シャルルはナンシー近郊に着陣したのでした。

シャルルの側近の某貴族M氏はこのナンシー戦におけるシャルル手持ちの軍勢を2000人と数えている。
対するに堀越孝一氏は『そりゃないだろう』と5000~1万そこそこじゃないかと推測している。
M氏は不安&弱気のせいで兵力まで見誤っているんじゃないですか、ということっぽい。
さて、相手となるスイス&ロレーヌ連合軍はだいたい2万人くらい。
既に2度も負かされてヘロヘロになったブルゴーニュ軍は果たして連合軍を抑えきれるのか!

シャルルは町の近くの川沿いに布陣することにした。
しかしスイス&ロレーヌ連合軍は彼らを正面からぶっ叩く方法を取るつもりはさらさらなかった!

運命の日・1月5日。
ここでグランソンのモットー『廻り込んで攻撃しようぜ!』がまたまた生きてくるわけで。
スイス&ロレーヌ連合軍はひたすら廻り込んでブルゴーニュ軍から見て左手の森をこっそり進軍。
そしてブルゴーニュ軍を視界に捕らえると、雪崩をうって突撃。

響き渡るアルペンホルン。 パイクを手に突撃してくるスイス軍。
錯乱・恐慌に陥るブルゴーニュ軍。 繰り広げられる血みどろの戦闘。
で、雪崩をうって突撃するスイス軍から命からがら逃げた将軍はある事に気づいた。

(;^ω^)『ちょwブルゴーニュ公いねえww』

いない。
当然戻ってるだろうと思いきやどこにもいない。 ブルゴーニュ公シャルルが行方不明だ!!

2日後、静かになった戦場で何とか生き残った人々がブルゴーニュ公を探し回ることとなった。

『あ、いたいた…あれ?誰この人?っていうかホントに人間?』

死屍累々となったサン・ジャン池から探し出したブルゴーニュ公とおぼしき遺体はすっかり人相が変わっていた。
というか、ぐちゃぐちゃすぎて元が人間だったのかどうかすら怪しいことになっていた。
ポルトガル人の侍医と某貴族M氏…オリヴィエ・ド・ラ・マルシュ氏は主君の古傷で探し当てたという。
その古傷はかつてフランス王を追い込んだモン・ル・エリーで受けた傷跡だったそうな。
こうして『偉大なる西の大公』はその生涯を不本意な形で終えることになったのでありました。

(マリーとマクシミリアンに続く)