Only One Woman関連のインタビュー記事抜粋

~以下の記事は公式サイトの2003年のインタビュー記事から適当に意訳しました。白抜き文字は個人的な追記・原文からの引用です~



※マーブルス時代、従兄弟のトレヴァーとマネージャーのロバート・スティッグウッドの話を振られて※

従兄弟のトレヴァーとは彼の友達(原文では『女友達』でした。カノジョか。)を間に挟んでコンタクトをとったんだ。
(トレヴァーはイングランドからオーストラリアへ引っ越してたから)9年ほど会ってなかったんだけれど、
その間にオーストラリアでビージーズと知り合ってレコードを出していたようなんだ。
それで色々あってトレヴァーがイングランドに戻ってくることになって…
ビージーズつながりでロバート・スティッグウッドと知り合って、でもってトレヴァーとまた一緒にバンドでも組もうか
っていう話にもなって、ある日の昼時に連れ立ってロバート・スティッグウッドの家に行くことになったわけ。
それで(ビージーズの)バリー(ヒゲ)とロビン(しょぼくれ)とモーリス(ハゲ)と一緒にギターを弾いたりしながら、
2日以内にでもレコードの録音を始めるという契約を結んだんだよ。


※ビージーズのバリー・ギブが作詞した『Only One Woman(邦題は“オンリー・ワン・ウーマン”)』とかの話を振られて※

そうそう、ロンドンのプルマン・プレイスっていうところにあるスタジオに行ったんだよね。
それでレコーディングはIBCスタジオでやったんだった。
そうは言ってもみ~んな『la-la-la』で済ませてて、歌詞まではまだ決まってなかったんだよ。
バリーが基本的なアイディアを考えてたんだけど、少しだけ心配になったところがあってね。

4分の3拍子で、カントリー調っていうかむしろカントリー・ソングだったんだ。
スローテンポで感情のこもった感じの曲だったよ。
それでトレヴァーが僕に『もうちょっと低いメロディにしてさ、音程高めにするのはどう?』って言ってきた。
だから僕は『へぇ、結構良さげなアイディアだねぇ』と言ったわけ。バリーも同意してたよ。
そういうことでトレヴァーと僕は最初のレコードのために曲や歌詞を書いたりしたんだ。

ある種の変更点はあったよ。テンポは少しだけ遅くして、メロディラインを変えたんだ。
それからも目下のところ『la-la-la』って歌ったりとかしてたわけだけど、次の日になってバリーにアイディアが
浮かんだらしくて、いろんな言葉を書き留めてきた。それで皆でこの曲のタイトルは何にする?って相談し合ったんだよ。
『10人の可愛いインディアン(Ten Little Indians)にすんの?』とかね(笑)
まぁそれはともかく…もう知っているとは思うけど、その曲は『オンリー・ワン・ウーマン(Only One Woman)
っていうタイトルになったんだ。皆が僕のために力を併せてくれた、素晴らしいひと時だったと思うよ。


※『The Walls Fell Down(邦題は“君を求める淋しき心”)』に関しての質問を受けて※

この曲は以前に録音していたデモ音源からのもので、まだ完全に録り終えてなかったんだ。
完成していた音源は『Only One Woman』と『The Walls Fell Down』、それから確か『A House Is Not A Home』…
この曲は僕がオーケストラと一緒に録ったものなんだけど、『よし、じゃあ手直ししてくるから待っててね』と言われたのに、
結局そういう手直しはしなかったみたい。それでその(『A House Is Not A Home』が収録された)アルバムは結果として、
僕の従兄弟(トレヴァー)やビージーズの皆と別れたあと…つまりマーブルスが解散した後に発表されたわけ。


※『当時、ポール・マッカートニーがテレビショーに電話をかけてきたそうだけど…』という質問を受けて※

1968年に『Only One Woman』をテレビショーで…サイモン・ディー・ショーだったかな?
…確か、ポップスのベストなんとかみたいな…当時は皆が観ていたよくあるタイプの番組だよ。
そのテレビショーに出て歌ったあとに、ポール・マッカートニーが電話をかけてきた、と。
楽屋に引っ込んでいたんだけど、ロード・マネージャーが入ってきて『誰から電話があったと思う?』って言うんだよ。
それで『え、誰からなのさ?』『ポール・マッカートニーがプロデューサーが誰なのか知りたいんだそうだ…』
というわけでロード・マネージャーはポール・マッカートニーに“プロデューサーはロバート・スティッグウッドだ”と
伝えたら、『ロバートはいいのを見つけたね!』と返されたんだそうだよ。