フィリップ『善良公』は『善良』なのか?

ホラント・エノー・ゼーラント女伯ヤコバ・ファン・ベイエレンの扱いといい、百年戦争土壇場での裏切り
(あくまでイングランド側にとっては、だが)といい、どうもフィリップ善良公が『ル・ボン=善良』という
気がしなくなってまいりました。イングランドとフランス双方がブルゴーニュ公国を味方に付けようと必死に
なる中、ギリギリまでどちらにもつかなかったうえにネーデルラントに領土を拡げて勢力を伸ばしていく有様。

父親ジャン無畏公の政策を受け継ぎ、シャルル6世妃イザボー・ド・バヴィエール(エリーザベト・フォン・
バイエルン)とイングランド国王の摂政ベドフォード公と手を結んで父の仇であるブールジュのシャルルを
叩きのめすのかと思いきや、ベドフォード公がすっかりフランス憎しの念を燃やして今にも王太子の息の根を
止めてやる!という土壇場になって『俺やっぱフランス王家の血を引くフランス第一の家臣なんで☆彡』
とのたまって勝手にシャルル王太子(シャルル7世)とアラスで和平条約結んできちゃう。


(;∀; )『ちょっ…フィリップ義兄さんなにやってんすかぁぁああ!!』

( ´・ω・`)『あー…実は俺、お前みたいな血の気の多いアングレーズ嫌いなんよ』

(;∀; )『あんたも血の気が多すぎるくらい多いじゃないっすかぁ!』

( ´^ω^`)『ていうか俺さぁ、前からシャルル王太子と和平条約結ぶ予定だったから☆彡』

(;∀; )『おまwwwwwww』


※ベドフォード公ジョンはブルゴーニュ公とシャルル王太子(シャルル7世)間でアラスにおける会談が
  行われているさなか、ルーアンでお亡くなりになります。

当然ベドフォード公はハンカチを噛み締めながら憤死するわけですよ。
あとちょっとでフランスをイングランドのものにできたのに、それをブルゴーニュ公のまさかの寝返りにより
(とイングランド側からは見えるわけだ)イングランド王がフランス王を兼ねて百合の王国を統治するという
アンジュー帝国以来の夢が完全に潰えてしまうわけで。
アラス条約を知ったイングランド国民は怒り狂ったそうである。


(以下はジョゼフ・カルメット著「ブルゴーニュ公国の大公たち」より引用)

フィリップ・ル・ボンは、公式にヘンリー6世あてに、自分がアラスでシャルル7世と取り決めたばかりの
「個別の和平(アラス条約)」が、ブルゴーニュと英国のとの間の戦争を誘発するものではないこと、
それどころか、自分の意図は、全面的和平の締結を追及することであることを通告させた。
しかし、おそらく誠心からというより、多分に見せびらかしの性格が強いこの楽観はついに期待通りには運ばず、
そのあとには予想外のことが起ってきた。

ロンドンでは、アラスの和平は、怒りの爆発を呼んだ。
群集は、デモ行進をかけ、フランドルやピカルディの多数の商人が血祭にあげられ、ブルゴーニュの
外交団までもがあやうく命を失うところだった。
ヘンリー6世は、ブルゴーニュ家の持つフランス内封土の
すべての没収を宣告した。グロセスター(グロースター公ハンフリー)は、カレー守備隊長となり、ネーデルラント
諸公国の攻略のための軍備が強化されるとともに、フランドルの艦船が英国海軍により海上で追撃拿捕された。
リエージュ司教、ドイツ諸侯、ホーラント諸都市は、さかんに煽動されて、いたる所で、かつての同盟国に
対抗するための共同戦線の結成が求められた。

(中略)

グロセスターは、ポペリンヘとサン=トメールまで、一帯を荒らしつくした。
英国艦隊は、ツウィンの海岸に損害を与えた。11月には、ル・クロトワ包囲戦がまたも、ブルゴーニュ側の
敗北に終った。大公(フィリップ善良公)の隊長たちの中にも、無視できぬ抵抗の気配が見えてきた。
リニイ伯は、英国人との戦いにくみしようとしなかった。
ホーラントの各都市は大公の命にそむいて、これらの隊長たちと裏取引を始めようとしていた。

フランドルでも、英国との決裂の結果として、大公の権力がゆらぎ出していた。
戦争に駆り出されていた兵たちが帰還すると、ブリュージュ市とガン市とが、どっと沸き返った。
ブリュージュは、かつてスロイスに対して行使していた支配権の回復を要求した。
1436年8月に起ったこの事件は、譲歩に譲歩を重ねてやっと鎮静できたが、1437年に再発し、怒りの波が
高まってきて、5月21日、大公がこの都市に入ろうとしたとき、攻撃を受けた。
何人もの犠牲者が、大公のそば近くで斃れた。リラダン元帥もその中にいた。

そういう中で、怨みから生じたこういう敵対行為のせいで、英国との交易も、ベルギーやオランダとの交易と同じく、
損害を受けていた。これは長引いてはならなかった。
公妃、イザベル・ド・ポルチュガルが、なにより必要な交渉の段取りをし、うまく運ぶ任を買って出た。
会談のため選ばれた場所は、グラヴリーヌだった。大公は、すぐ近くのサン=トメールに滞留していた。
英国側代表としては、ヘンリー・ビューフォート(ヘンリー・ボーフォート)がことに当った。

平行して、フランドルでは状況も改善に向かっていた。
ルイ・ド・マールの時代と同じく、都市間の分裂が、領主の権力にうまうまと乗せられる結果になった。
ブリュージュは孤立し、1438年3月8日、ついに降服の止むなきに至った。



このようにイングランド国民が怒り狂うのはもちろん、イングランドと交易をしていたフランドル商人もとんだ
とばっちりを受けたうえに大切な交易相手を失いかねないと必死でフィリップ善良公の政策に抵抗。
アラス条約で平和が約束されました、めでたし。というわけにはいかなかったようです。
で、こういうリスクを負ってまでフランスと和平を結んだブルゴーニュ公フィリップは結局『善良』だったのか。

フランスに対して妙な義理立てしちゃったところが『善良』と綽名をつけられるいわれとなったのだ、とあの
堀越さんはおっしゃってますが、ネーデルラント継承戦争や諸都市の鎮圧、そしてフランス王家・イングランド
王家を煙に巻く立ち回りっぷりから判断してフィリップはとても『ル・ボン=善良公』であるとはいい難いでしょう。

フィリップ・ル・ボンは英語ではフィリップ・ザ・グッドとなるわけですが、辞書を引いてみるとこのgood
いう形容詞にはいろいろな意味があって、その中のひとつにgood=すぐれた、やり手ともとれるような意味
合いも含まれているらしい。そういうわけで、フィリップ・ザ・グッドはたとえばやり手のフィリップだとか
「すぐれた」という意味が何に対してすぐれているのか、ということを鑑みて「百年戦争、ネーデルラント
継承戦争ですぐれたところを見せていた」→「戦にすぐれた」という意味に無理やりこじつけてみるならば
戦上手のフィリップというふうにも取れませんか?

なんて思ってたら、『フランスの歴史をつくった女たち』に興味深い記述がありました。
曰く14世紀においてル・ボンという単語には、「勇猛な」という意味も含まれていたとのこと。
15世紀にもル・ボンに「勇猛な」という意味があったとするなら、フィリップ・ル・ボンは勇猛なフィリップ
あるいはフィリップ勇猛公という訳になる…はず。少なくとも「善良公」ではないかもね。

あるいは女性に対してもやり手だった(『他は持たず』をモットーにしてるくせに浮気しまくってたw)から
女漁りにすぐれたフィリップとかいかがかと思いましたが…これではフィリップ美公とカブるがな!

上記のような理由で、フィリップ・ル・ボンを単純に『善良公』とか『おひとよし』という意味に結びつける
のはちょっと異議あり!です。どう見てもおひとよしとか善良な人の取る行動じゃないだろう、あれは。