ブルゴーニュ公が悪者になる理由・5

ベドフォード公が病死し、グロースター公が突然死(暗殺疑惑もあるらしい)し、イングランド国内はいよいよ血みどろの
お家騒動・薔薇戦争に向けて動き出します。迫りくる薔薇戦争の暗雲によりフランス国内の領土守備に手が回らなくなり、
必然的にドカドカとフランス王軍に領土を攻め込まれてしまい1450年にノルマンディーが陥落。
そしてギュイエンヌ(アキテーヌ)でも戦力援助が失敗し、1453年に陥落。
フランス国内のイングランド領はカレーを残してほぼ制圧されてしまったのでした。

1453年に百年戦争の勝敗が決し、イングランド・フランス両国民が我に返ってみると互いの領土はまさしく荒涼とした
焼け野原と化していました。イングランドは内戦で大混乱、フランスはイングランドに攻め込まれていたダメージにより
悲しくなるくらいボロボロ。お互いに戦費を使い切ってほぼノーマネーです。
2国間がそのような有様になっている中、明らかにこの戦争を通して富んでいる国がありました。
それがブルゴーニュ公国

イングランドとフランスの戦争をそっちのけに神聖ローマ帝国封土を含む経済の要衝・ネーデルラントをもぎ取り、
世界の中心である神聖ローマ帝国への足がかりを掴んだフィリップ善良公。
この時期にフィリップ善良公は神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世から『王国に格上げしてやってもいいよ』という
ような仄めかしを受けています。しかしこの提案はルクセンブルク公領の領有問題で紛糾し、結局お流れになってしまいました。
(結果はともかく)3代目ブルゴーニュ公の権力は神聖ローマ皇帝からも認められるまでに確固たるものとなっていたのです。

ここでイングランドとフランスは『フィリップ善良公にしてやられた!』と気づきました。
百年戦争でフィリップ善良公はイングランドにもフランスにもギリギリまではっきりした肩入れをせず、オルレアン以降
振わなくなったイングランド軍に財政援助をしても無駄と判断して手を引き、フランスと休戦協定を結んでひとまずは
協力する体制を作り…とフィリップ善良公の行動を並べてみると、彼がいかに百年戦争の勝敗を決定する局面で
重要な役割を担っていたかということが浮き彫りになってきます。そしてこのフィリップ善良公の行動はイングランド
とフランス両国に『お前どっちの味方なんだよ!』というモヤモヤ感を巻き起こしたわけです。
後世に『どうもハッキリしない行動をとる、信用のおけない国』という印象を与え、ブルゴーニュ公国はやれ『二股膏薬』
だの『ジャンヌ・ダルクを売り渡した悪者』云々と言われるようになっていきました。

ブルゴーニュ公国の立場からしたら、こういった非難はたいそう的外れなものと見えることでしょう。
そもそもフィリップ善良公の時代において、ブルゴーニュ公国は本領のフランス王国内ブルゴーニュ公領から北部の
フランドル伯領に政治的・経済的中心地が移動していました。
フランス王国内の封臣ブルゴーニュ公は神聖ローマ帝国内の封臣ブルグント伯・フランドル伯としての立場をより重視し
権力を強めていっていたわけです。

極端な話、イングランドとフランスがどうなろうと知ったこっちゃないというスタンスです。
神聖ローマ帝国での自分(ブルグント伯・フランドル伯)の立場のほうがよっぽど大切。
でもとりあえず百年戦争でイングランドとフランスどっちが勝っても負けても、なるべく自分が得をするように動きたい。
だからイングランドが有利ならイングランドに協力して あ げ る し、フランスが有利になればフランスに協力して
あ げ る 。というような立場であったわけです。
極端に言うと神聖ローマ帝国>>>>>>>>>>戦争で弱ってるイングランド≒戦争で弱ってるフランス
くらいの認識です。イングランドとフランス両国が抱く反感はブルゴーニュ公にしてみればひどく的外れと映ります。

『二股膏薬?裏切り者?そもそもお前らのことなんて元から眼中にありませんけど?』
『ジャネットを売り渡した?あの時はイングランドに協力してたからとりあえず引き渡しただけですけど?』
『文句があるなら俺を味方につけてみろよ!』


そんな声が聞こえてきそうになるくらい、ブルゴーニュ公フィリップ善良公の対イングランド・対フランス政策の
切り替えは速い。そしてこういう点がまた、百年戦争の結末を『強いフランス王国の勝利』で飾りたいフランスや
百年戦争の結末を『国内情勢も悪かったが、それ以上に外的要因が重なったせいで敗北した』ということにしたい
イングランドの歴史観をして今なおブルゴーニュ公を悪者にせしめるのです。



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