Ythier Marchant関連抜粋

●ヴィヨン詩集『形見』の一部をドイツ語からのへっぽこ日本語訳

わたしの常々尊敬するイティエー・マルシャン殿に
切れ味鋭いブロンズナイフを贈ろう
(いや、ジャン・ル・コルニュに贈ろうか?)
しかしながらそのナイフ
8スーの飲み代のため質草に入れたもの
いつか買い戻したときにでも
この価値ある物を彼らにお渡ししよう


●同書から『親しい人々に捧げる詩』の一部をドイツ語からのへっぽこ日本語訳

イティエー・マルシャン殿に以前ナイフを贈ったけれど
今度は歌を献じよう
10行の追悼詩をリュートの響きに乗せた
彼のかつての恋の思い出を
しかし彼女の名前は出しますまい
彼に絶交されぬようにするため


●『親しい人々に捧げる詩』中より「彼のかつての恋の思い出」を歌った『ロンドー』をドイツ語からのへっぽこ日本語訳

死よ、お前の非情さを訴える
彼女を、わたしの愛する女を奪ってゆき
それに飽き足らず、
わたしに更なる辛苦を与えた
もはや何ごとにも手がつかぬ
彼女がいったい何をしたというのだ、
死よ?

わたしたち二人の中に、一つの心臓が脈を打っていた
その心臓が止まることはわたしの死をも意味すること
ああ、生きる理由もなしに命長らえることができようか
まるで幻のような虚しい日々だ
死よ!
(なんか訳してみたら12行になっちゃいましたが、原文はきっちり10行です)


昔の恋の思い出を知っているほどに親しかった友達らしいが。
一体誰なのか疑問を抱いていたら、『鈴木信太郎訳・ヴィヨン全詩集』に注が振られてた。
以下ちょっと長いけども抜粋。


Marchant (Ythier)

イチエ・マルシャンはヴィヨンとほぼ同年配の幼少からの親友である。
最高裁判所議定官エームリ・マルシャンの息で、継母は有名なClaustre家の出、
異母妹も後に同家に嫁いでいる。

イチエは1437年~39年の間に孤児となり、後見人は附けられたが、若くから金銭は自由になり、
女出入があったのをヴィヨンはよく知っていたらしい。

『遺言詩集』の頃には既にイチエは政治に関係していて、1460年にはルネ王の子ジャン・ド・カラブルJean de Calable
及びルイ11世の弟シャルルCharle de Guyenneに近づこうとし、61年には後者の臣下となり、65年には早くも
シャルルの書簡に副署している。

71年頃、イチエは、サン・ポル伯爵ルイ・ド・リュクサンブールLouis de Luxembourg,comte de saint-Polと
ブウルゴーニュ大公シャルル豪放公Charles le Téméraire,duc de Bourgogneとの提携を企てて努力している。

この時、シャルル・ド・ギュイエンヌがルイ11世の王位を簒奪しようと陰謀している噂が飛び、イチエがその中心人物と見做された。

ルイ11世は、イチエを世界中で一番嫌いな男だと公言し、彼を看視させ、その筆跡まで知っていたと言われるが、
終いにこの陰謀家を金で買い取ろうと決心し、舎弟シャルルの家臣なのにも拘わらず年俸1000リーヴルを
与え将来の地位を約束した。
(嫌いな男と言っておきながら給料を支給していたところを見ると、その才能は買っていたのですね。
ルイ11世、心が広いんだか狭いんだかわかんないぜ。)

1474年9月イチエ・マルシャンはその家来ジャン・アルディJean Hardyの事件の巻添えとなった。
アルディはルイ11世を毒殺する決心をした、というのである。

然しアルディはイチエの傀儡に過ぎず、
イチエはブウルゴーニュ大公の為に企てたのだ、と評判された。

1475年3月31日に、アルディはグレーヴ広場で四裂きの刑に処された。
そしてイチエは其後間もなく牢獄に於いて、不可解な死を遂げた。

鋭い才能の大胆な男らしいが、ヴィヨンはその少年期しか知らないわけである。





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