古いフランス語のバラッド抜粋

●中世フランス語(原文)

Ou suit de Vienne et de Grenobles
Ly Dauphin, Ly preux, Ly senez,
Ou de Dijon, Salins et Doles,
Ly sires et ly filz ainsnez,
Ou autant de leurs gens privez,
Heraulx, trompetes, poursuivans,
Ont ilz bien bouté soubz le nez?
Autant e emporte ly vens.


●ドイツ語

Sei von Vienne er, von Grenoble
Der Dauphin klug und hochgesinnt,
Ob von Dijon, Salins und Dôle
Der Herr mit seinem ältesten Kind,
Herolde, Bläser, Rittersleut,
Sie alle, die ihm dienstbar sind,
Sichs Maul vollstopften voller Freud,
Das alles trägt hinweg der Wind.


●ドイツ語からのへっぽこ日本語訳

ヴィエンヌ、グルノーブルの
賢く思慮深い王太子
あるいはディジョン、サラン、それからドールの
君主のお世継ぎの若さま
その使いの者、喇叭手、供の者
みなみな、いかに働きを見せ
喜びに満ち満ちて美食を楽しもうとも
何もかも、風が過ぎれば失せゆくもの






上記の『賢く思慮深い王太子(ドーファン)』はシャルル7世の長男ルイ王太子(ルイ11世)のこと。
そして『君主のお世継ぎの若さま』はフィリップ善良公の長男シャロレ伯シャルル(シャルル突進公)のこと。
中世の秋のフランスきってのアウトローポエマーがわざわざ2人に言及しているのはどうしてなのか?と
いうことは堀越孝一氏の著書『ブルゴーニュ家』でわかりづらくw説明されている。

ブルゴーニュもの、フランスものと端的に表現され、この詩が表しているのは後年にブルゴーニュ公子
・シャロレ伯シャルルとフランス王として国内を統治するルイ11世とが派手にぶつかったモン・ル・エリーの
戦いを見通したものである、と結論付けられている。要するにブルゴーニュ公国とフランス王国間の戦いね。

で、ブルゴーニュ公国とフランス王国間の戦いというのはシャロレ伯シャルル(シャルル突進公)とルイ11世の
世代よりも更に前のフィリップ善良公とシャルル7世勝利王の時代からず~っとくすぶり続けていたわけで。
コンピエーニュやらアラス条約で百年戦争の和平が確約されてはいたけれども、本当の終結はルイ11世が
イングランドと締結したピッキニー条約を待たなくてはならない。

フィリップ善良公は『フランス第一の家臣としてのブルゴーニュ公の責務』を重視してシャルル7世との
戦いを避ける政策をとった。でも長男のシャルルはフランス大嫌い。そういうこともあって、シャルル突進公の
代で『フランドル伯の反骨精神』を重視したブルゴーニュ公国(っていうかシャルル突進公)は堂々と表立って
フランス王国に喧嘩を売ることになっていく。

さらに前世代のジャン無畏公とルイ・ドルレアンとシャルル6世妃イザボー・ド・バヴィエールも面白いなあ、
と思ったけどなにぶん百年戦争がややこしすぎてわかんないw
関連資料を読んでいるとあんまりな混線ぶりに脳みそが理解するのを拒絶するしwww
ブルゴーニュ、フランスはともかくイングランドとかジャンヌ・ダルクまでからんでくるともうね。

※偉そうにダラダラ書いたけど、なにぶんうろ覚えなので条約名とか時代の流れを読み間違えてるかも。※


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