ブルゴーニュ公が悪者になる理由

百年戦争末期に表舞台に上がるブルゴーニュ公ジャン無畏公(サン・プール)とフィリップ善良公(ル・ボン)。
なぜかイングランドとフランス双方から印象の良くないこの二人。
いちブルゴーニュ派として、そもそもどうして評判がよろしくないのかを今一度考察してみましょう!!


1404年にブルゴーニュ公・ブルグント伯・フランドル伯の家督を相続したジャン無畏公は、父親のフィリップ豪胆公(ル・アルディ)の
対フランス政策を受け継ぎながら『フランドル伯』としてフランドル・ネーデルラント方面に勢力を伸ばしていました。


( `・ω・)『フランス王国とフランドル伯領を行ったり来たりしなきゃならんから大変だ!』


フランドル伯領はドーヴァー海峡の向こうのイングランド王国と貿易面で密接な関わりがあるところです。
そういう事情もあってジャン無畏公はフランドル伯としての立場を通してイングランド王国とのコンタクトが多くなっていきます。
ジャン無畏公がフランス王国内を留守にしがちだったので、いとこにあたる王弟オルレアン公ルイが国王シャルル6世(ル・フォル。
狂王という綽名が示す通り、メンタル面が不安定だった)の補佐をするようになりました。
しかしオルレアン公ルイは利己的な政策に奔ったのでパリ市民に不満がたまることに。
さらにジャン無畏公とオルレアン公ルイは大変折り合いが悪く、不仲はいつしか党派争いに発展していきました。
ブルゴーニュ派とアルマニャック派の抗争と呼ばれるフランスお家騒動です。


(#`・ω・)『兵は神速を尊ぶ!オルレアン公がこれ以上のさばるのは我慢ならん』


そういうわけでオルレアン公ルイは暗殺されました。
ジャン無畏公はパリ市民から歓迎され、ブルゴーニュ公のパリ(≒フランス王家)における優位は不動のものとなります。
しかしオルレアン公の支持者(アルマニャック派)は王太子シャルル(のちのシャルル7世勝利王)を神輿にかついで
ジャン無畏公に対抗します。
この事態を重く見たジャン無畏公はアルマニャック派と仲直りしようと王太子シャルルと
会見をしに出かけて行きましたが、アルマニャック派の怨みはジャン無畏公の想像していたよりもず~っと大きかったようです。


(#`・ω・)『さっきからあぁだこうだとごたくばかり並べて、なかなか話が決まらないじゃないか!
       まったく…王太子殿下におかれましては和平に応じる気はあるのですかな?』

(;^Д^)『え、え~と、それはまた後日改めて』

(#`・ω・)『後日!…王太子殿下、ふざけてらっしゃるんですか!私は色々と忙しいんですよ』


イライラした様子のジャン無畏公はシャルル王太子の肩をむんずと掴みました。


アルマニャック派『この野郎、オルレアン公閣下だけじゃなく王太子殿下まで殺す気か!』

(;`゚ω゚)『は?何を言って…』



この後すぐにジャン無畏公は頭を斧でかち割られて即死しました。
これにより、長男のシャロレ伯フィリップが23歳の若さでブルゴーニュ公として公国を統治することに。
ジャン無畏公の奥方でつまりフィリップの母であるバイエルン・シュトラウビンク家出身のマルハレータ・ファン・ベイエレン
(マルガレーテ・フォン・バイエルンあるいはマルグリット・ド・バヴィエール)は夫の暗殺事件に怒り心頭。
フィリップも父を殺された怒りと家臣団の賛成が手伝って、かねてからジャン無畏公が進めていたイングランドとの協調政策を
進めることに。父の政策を受け継いだ若きブルゴーニュ公フィリップ『善良公』には、父の遺した強力な武器が残されていました。
パリ(≒フランス王家)です。

アルマニャック派(の中の強硬派)によるモントローの暗殺事件の責任は頭領である王太子シャルルにあるとされ、
王太子シャルルの母・フランス国王シャルル6世妃エリーザベト(イザボー)は親子仲の悪かった三男坊をこれ幸いと廃嫡。


(;^Д^)(あっ…あのクソババア!)


「王太子どころかヴァロア家の者ですらない、どこぞの私生児」の烙印を捺された 自 称 王太子シャルルは
仕方なくパリを離れて、しばらくブールジュにとどまることになります。

そして三男を廃嫡したあとにフランス王妃エリーザベトは、基地外の夫シャルル6世にすっかり愛想を尽かしていたので…
愛娘カトリーヌの夫にあたるイングランド王ヘンリー5世にフランス国王の権限と王冠を与えたのでした。
フィリップ善良公にとって、同盟国イングランドのヘンリー5世にフランスの王権が渡ったことは非常に好都合でした。


(`・ω・´ )『ふむふむ、思ってたよりもずっといい方向に転がったもんだな!』


フランス王妃エリーザベトもまじえてイングランド・ブルゴーニュ間の同盟を強めるために1420年、
ヘンリー5世との協定を結びます。これがトロワ条約

トロワ条約で正式に王太子シャルルの廃嫡・イングランド王国とブルゴーニュ公国との同盟が締結。
パリはフランス王妃エリーザベト、そして娘婿ヘンリー5世とブルゴーニュ公フィリップ善良公の影響下に置かれます。
ところがタイミングがいいんだか悪いんだか、1422年にエリーザベトの夫シャルル6世と娘婿ヘンリー5世が相次いで病死。
エリーザベトはシャルル(自称)王太子よりも赤ん坊の孫・ヘンリーのほうが可愛いのでイングランドとフランスの
王冠をかぶせました。ヘンリー6世として即位したこの赤ん坊は、故ヘンリー5世の2人の弟・ベドフォード公ジョン( ・∀・)
グロースター公ハンフリー(゚」゚)が摂政(当初は護国卿)となり、それぞれフランス内領土の統治とイングランド内の統治をする
ことで八方丸く収まる………はずでした。

問題を起こしたのはグロースター公ハンフリー。
ホラント・ゼーラント・エノー女伯ヤコバ・ファン・ベイエレン(フィリップ善良公の従妹)と結婚したので、ネーデルラント(ホラント・
ゼーラント・エノー伯領)継承権がヤコバを通じて自分にあるのだ、と申し立てたわけです。

ヤコバ・ファン・ベイエレンはトゥーレーヌ公(フランス王太子)ジャンと最初に結婚したものの、関係を結べないままに死別。
ジャン無畏公の意向によりブラバント公ジャン4世と再婚したものの、性格の不一致でヤコバのほうから三行半を叩きつけて
イングランドへ国外脱出、そこで知り合ったグロースター公ハンフリーと恋に落ちたのかどうかは定かではありませんが、
ともかく勝手に結婚したのでした。ヘタレと名高いジャン4世はコキュの称号まで得てしまいます。そして従兄のブルゴーニュ公
フィリップ善良公に助けを求めたため、ジャン4世代理としてフィリップ善良公がヤコバとハンフリーを相手取り争うことになります。

さて。グロースター公ハンフリー自身は結構ノリノリでこのネーデルラント継承戦争に乗り出しました。
そもそもネーデルラントは当時きっての一大市場で、グロースター公ハンフリーはこの市場を確保してイングランド・
ネーデルラントひいてはフランドル間の商業圏を我が物にしたいわけで。
兵士を率いてフランス国内のイングランド領・カレーを経由してネーデルラントに攻勢をかけていきます。

ヤコバと争っていたフィリップ善良公は当然ながらグロースター公ハンフリーを迎え撃ちました。
フィリップ善良公は母からヤコバと同じシュトラウビンク家の血を受け継ぎ、しかも1420年代前半には伯父にあたる
リエージュ司教ヨーハン・フォン・バイエルンの相続権を得ていました。
リエージュを相続したついでにネーデルラント継承権を何がなんでも手に入れたかったわけです。
ネーデルラントの大市場を、フィリップ善良公もまた喉から手が出そうになるほど欲しくて欲しくてたまらなかったのです。
『つーか、ネーデルラントは俺のものだし?』くらいに思ってたであろうフィリップ善良公としては、自分の手を
すり抜けて逃げるヤコバにやきもきさせられているわけで…。


(`・ω・´#)「ヤコバぁああ!さっさと従兄のフィリップ兄さんにネーデルラントを明け渡せ!
        でないとゲンコツさんが出てくるぞぉお!」

ξ#゚⊿゚)ξ「アンタみたいな腹黒い従兄にわたしのネーデルラントは渡さないんだから!
         フランスの親王あがりのブルゴーニュ公よりもイングランド王の摂政様をやってる
         ハンフリーさんのほうがよっぽど信用できるわよ、バーカ!!!」

(゚」゚)「ヤコバちゃんの言うとおりだよ~、ブルゴーニュ公はおとなしくブルゴーニュ領内に
    引きこもってればいいだろ?イングランドは海を挟んでネーデルラントと向かい合ってるから
    ネーデルラントはこっちのものだし~。これ以上介入してくんなよ~」

(`・ω・´#)「なにを言うか、このアングレーズ!ブルゴーニュ公にしてフランドル伯のこの
        フィリップにはフランドルに隣り合うネーデルラントを支配する権利がある!」


みたいなやりとりが続けられていたかもしれない。
で、イライラがクライマックスに達したブルゴーニュ公フィリップ善良公はある策を講じます。





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